コンクールの弊害

佐々木基之著「耳をひらいて心まで」より引用しました。


そもそも、音楽コンクールというものが存在すること自体おかしいとはお思いになりませんか?

今日、オリンピックは運動競技のために、しかも世界人類親善のために四年に一度開催されています。ところが、本来美しく楽しい音楽演奏を、コンクールとかオーディションとか名称は違っても、技を競わせて審査員の手によって優劣を決めています。これが世界中のどこかで毎年盛んに行われて、どんなコンクールであれ入賞すればマスコミは必ず取り上げています。

〜略〜

音楽性の喪失がコンクールの流行を招来したか、あるいはコンクールそのものが、技術以上のもの、即ち、クララ・シューマンの言葉を借りるならば、「心にまで届く音楽」を忘れさせてしまったのか、いずれにしても悪循環であると思います。


本来、音楽というものは比較して優劣をつけられるべき性質のものではない筈です。

音楽はその人の感じたものを表現するものですから、人それぞれの好みによって、共感を覚える人もあれば、否定する人もあるのは当然です。

それを審査員の討論や多数決によって、もっと悪い場合は情実も加わって採点するわけですが、音楽そのものは計れないので、結局テクニックを標準とすることになり、技術練磨の風潮を増々助長することになってしまいました。

技術に囚われている心からは音楽は消えてゆくのです。

これは、神を忘れた科学が芸術にまで及ぼした影響でなくてなんでしょう。原子力にコンピューター時代!人類は科学の驚異的な進歩を果たして歓ぶべきか憂うべきか迷っています。

このような時代にこそ、芸術の使命は<物を忘れて心に還るもの>でなくては、真に芸術としての価値はありません。


studio Kattini

音と動き、あるいは音、こころ、からだ、ひとをつなぐスタジオ

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