何が育ったのか、その2
渋谷の分離唱を支えてくれているレギュラーのひとりより、先日のブログ「何が育ったのか」、の感想をいただきました。
ブログにはわたし自身が感じていたことを書きましたが、このような感想をいただけてとても嬉しいです。
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昨日付のかつみ先生のブログの「何が育ったのか」という記事、 とても気持ちが動きました。
いつものメンバーの方々と声を合わせる時には、 声の重なりの中に自分の居場所が与えられているような感じで、 自然と「あ、ここにいればいいんだな」と安心した気持ちでいるのですが、 新しい方の声が入ってきた時は、それがふっと見えなくなるように感じて、 いつもと違うな、どうしたらいいのかな、という気持ちが起こります。
それは新しい方の声の色や息づかいなど、ひとりひとり違う個性みたいなもので、 音程がずれているだとかそういう音楽的なこととはすこし違うようにも思います。
そのような状況がこれまでに何回かあり、 「こういう時は、自分は動かずに新しい声にこちらですよと招くのがいいのか、 自分が相手をお迎えに行くのかいいのか、どっちなのかなあ・・・」 と、しばらくの間は頭で考えているのですが(←思い返すと偉そうで恥ずかしいです) 結局いつの間にか居心地の悪さが薄くなっていくので、 どっちを選んだのか自分でもわからないなと思っていました。
たぶん、どちらでもないのですね。
新しい声を含めた、その時のメンバーでの居心地の良さを探していっているのかなと。
自分の居場所を探すのは自分の安心のためのようですが、 他の人の席も決まらないと落ち着かないので、そういうことなのかなと思います。
最近感じていたことに焦点を当ててくださったので、 とても興味深く読みました。
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わたしは、「新しい声」の存在は、新しいエネルギーだと考えています。
全体に意識していると、中和されるがごとく、全体が変わります。
結果、全体に敏感に反応できる人たちが育っていると思います。
一瞬一瞬の音に、音のつながり、音の変化。
今ある音を作りながらこれらに敏感に反応できるのは、音楽に必要な要素だと思います。
それは、他の芸術や人生と同じかもしれません。
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