高いとか低いとか

このあいだ、男子友人ふたりが学校の音楽の時間の思い出を話してくれました。

音楽の時間はふつうに歌って楽しかったけど、テストでひとりひとり歌わされるのが最悪だった〜、と。

いきなり悪い空気になって、居心地が悪くなったと。


あんまり氣にしていなかった、と言えば嘘になるけど、彼らほどは記憶が鮮明ではないなあ。

ただ、空気が悪くなった、っていうのは憶えています。

声を出すこと自体が辛そうで、すごく氣の毒な人たちがいたけれど、どうしてなのかわからなかったです。

確かに変な時間だった。


披講の講座とか、やすえさんとの歌のレッスンとか、分離唱とか、「歌が苦手なんです」っていうひとに会う機会が増えました。

「じぶんの声が高いとか低いとか、わかんないんです。」って聞くことが多いです。


でも、そういう方たちがやすえさんのレッスンや披講などで、ものすごく素敵な味を出して表現されているのを聞くと、音程がわかるのは便利だけど本質ではない、って思います。


わたしは小さい頃からピアノを習っていたから、体験的に高い音、低い音は理解していたけど、学校でしか音楽をやっていないひとは、たしかに意味がわからないですよね、きっと。


音階、という音の並びだって、頭で理解するよりは、体験を重ねて耳とかからだが覚えてゆくものでしょうね。


たくさんの可能性のある声を、ひとつのスケール(測り)に当てはめて理解しているだけなんですよね。


わたしはそれしか知らなかったから、それが絶対的なものだと思っていたけれど、ひとつの測り方を知っているだけだったんだなあ、って改めて思います。


そう思うと、まわりのひとの音に対する感覚が敏感なこと。

わたしの知らない角度から、音から情報を得ています。


ひとりひとりが感じている世界が違う。

お互いに分け合えばもっと広がる。

それって、ものすごく豊かなことですよね。


studio Kattini

音と動き、あるいは音、こころ、からだ、ひとをつなぐスタジオ

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